尾道の芸者の奇妙な風習<生きている間に葬儀>

芸者イメージ

前回、尾道の「尼さん」について記した。

尼さんが尾道の「常称寺」に百人以上いたこと、又その人々が何を収入の糧として生活していたかについては、古着の修理、又は町人の子供達に「読み書き」を教えていたことを書いた。

その古着のことについてであるが、尾道の輸出品としては大事な商品であったのである。当時北前船の輸出品として、塩、鉄製品、畳表、酒、酢、が主要品であるが、他に讃岐の砂糖、そして古着とがある。

古着の類が商品として輸出されることなど、現代人には考えにくいところであるが、北陸、北海道では木綿がないので重宝がられたようである。特に「道服」というのは、着物の中に綿を入れたいわゆる「どてら」であり、当時の防寒着として重宝がられた。

尾道の卸問屋の手を径る荷物は品種も多かった。特に北前船は北海道と北日本との直接取引きで、尾道商人を潤わせた。

冬が深まると海が荒れるので、秋に尾道に来て、春に帰国するのである。その間、荷商いを済ませると、「色街」で大振る舞いをし、芸者が大忙しということになる。

下関から大阪まで、尾道の色街は知られていた。西方前頭七枚目に備後尾道があり、尾道の隣町の鞆は東方八枚目で、遊女の値段も鞆より高い。

当時は「米」と比較して、大阪よりランクは下だが、高い相場だったそうである。<諸国遊女立見録より>

尾道の芸者について

さて、尾道の芸者についてであるが、昔、「豆千代」という芸者がいて、昔の様子を語っている。その中で、生きている間に葬式を出すという話がある。

芸者はそれなりの晩年を芸事を教えたり、「やり手婆さん」みたいなことをして生きていくことが出来るが、その本人が生きている間に葬式をすると香典が本人に渡る。これまでの付き合いがあっただんな衆やひいき先も出さざるを得ないし、けちることもしない。それを退職金がわりにして老後を生きていく「よすが」になる。

誠に尾道芸者の知恵はあなどれない。落語のネタにでもなりそうな話である。

尾道小唄

♪わたしゃ尾道波止場の生まれヨ
出船、入船見てくらすヨ エンヤラサ~
新地にゃ冬でも花が咲く
エーよいとこ尾道ちゃ素敵~
エンヤラサ~ドッコイショ♪

と歌いつがれている。

Popularity: 29%

No related posts.

Leave a Reply

「まだコメントされていません。"尾道の芸者の奇妙な風習<生きている間に葬儀>" について貴方のお考えをどうぞ」

コメントは承認待ちです。表示されるまでしばらく時間がかかるかもしれません。