「どうしようもない私」種田山頭火と尾道
「分け入っても分け入っても青い山」で有名な山頭火と尾道について書いてみたい。
尾道は小さな街であったが、山頭火が来た頃の花町はたいへんな賑わいであって、芸者はいるわ、売春宿はあるわ、喧嘩は絶えず、肩が当たった当たらずで喧嘩、女の取り合いであばれる、といった賑わいであった。
花町の入り口にクリーニング店があり、その店先まで山頭火が酔いつぶれてのたわっていたそうである。
人通りの激しい店先で、乞食坊主が酔っ払って寝ているので迷惑この上ない。酒臭い坊主が寝ているのである。(今では当時の面影は無く、静まり返っている。)
そのクリーニング店のお婆さんが、ぶつぶつ云うのでもなく、邪魔にするのでもなく、「その坊さん、腹が減っているだろうと、彼が目を覚ましたとき、食事とお茶を差し出したら、その坊さんが1句の短冊(たんざく)をくれ、3晩で3句の短冊をもらったそうで、今でも大事に保管しているそうな。」
クリーニング店のお嫁さんが云っておられた。後になって、あの有名な山頭火という俳人であると分かったときの驚きはなかったそうである。
私は山頭火が大好きである。
特に好きな一首は、「まっすぐな道でさみしい、どうしようもない私が歩いている」の句が一番好きだ。自分がどうしようもないので、この句に惹かれる。
ところが山頭火伝を何冊か読んだが、ここで尾道と山頭火について、少し異なった見解を持っている人を紹介したい。
画壇の大御所梅原龍三郎-中川一政氏などと友人であり、春陽会のメンバーである、尾道出身の小林和作氏の種田山頭火についての一文を紹介する。
種田山頭火の事
近頃、俳人の山頭火の事がひどく有名になって、殆んど、あらゆる俳人たちを凌いで取りざたされ、その上に、山頭火に関する本が続々と出て、なおかつ、全集まででることになったらしい。しかし私は、山頭火をそう別に関心してもおらず、この人物はずいぶんお粗末で、その俳句も同じようにお粗末で、語呂合わせのようなもので、面白くもおかしくもない、と思っているのだが、こんな人物を死後何十年もたった今、墓から呼び出して、わいわい騒ぎ立てるのは、その連中が、山頭火を種にして、自らの名をあげるための狂騒としか思えないがどうであろうか。
しかし、私は、この山頭火とは多少のツナガリがあるので関心は持っている。
私は、山頭火本人に、昭和十何年かの山頭火の晩年頃に尾道で会った事がある。その頃、本町の今の尾道郵便局の東の方で南側にあった家で、尾道の文化人でなおかつ郷土史家であった村田四郎氏が、山頭火を招いて、私どもにまで召集をかけた。私どもは、何人かで村田家へ行ったが、時間は夜だったと思う。山頭火は村田家の二階座敷を陣取っていた。大男に見えたが酒焼けのした多少崩れかかった顔で、何やらぶつぶつ云っていた。私どもは、山頭火が何者か知らなかったので、この不愉快な強情そうな顔の老酒徒の話をロクにきかず、こちらでも勝手にわいわい云っていた。
そのうちに、村田氏が色紙を出したので、山頭火はそれへ何枚も自作の俳句を書いた。私もその中の一枚をもらったが、字も俳句も別に立派だと思わなかったので、家へ持ち帰ったままで、今ではその色紙の行方も分からなくなった。
その時は、小野鉄之進君も我々と一緒だったと思う。
その後、間もなく山頭火は死んだはずだが、新聞などにその名が出るほどの人物ではないので、私どもは何も知らず、近年まで無関心でいた。
しかし、私の母が種田一家の事を知っていて、私どもへ山頭火の父の竹次郎氏の事を一寸話していた事があったが、私はそれも近年まで忘れていた。
尾道には何度も来ているのに、たいていの「山頭火伝」にはその記述はない。尾道には山頭火の句牌もない。
誠に残念なことである。
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