志賀直哉と多喜二(蟹工船)

大山

以前書いた記事「蟹工船と尾道と(小林多喜二)」の続きで、小説の神様志賀直哉について書きたい。

志賀直哉は尾道と大山を対象的に捉えている

彼は父親との間の不和そして和解ということで「暗夜行路」を書いたが、自分のどうしようもない肉親との不和を癒してくれる尾道という風景の温暖な、また、尾道の人々とのなんでもない付き合いの中で、なんとか父親との和解をしようという気持ちが生まれたことで、瀬戸内海尾道の風土を書いている。

ところが再出発の京都で妻の不倫という現実に突き当たって、もう一度大山という厳しい山の杉木立の中で、暗夜に一つの心の灯火を見出すところで小説は終わっている。


直哉と多喜二の関係

当時無名の文学青年が、直哉の作品を熱心に学び、直哉の引き締まった無駄のない描写を学んだ。

多喜二が直哉著書「清兵衛と瓢箪」を面白く話してくれたことを弟の三吾は「兄多喜二を語る」の中で書いている。その後、多喜二は直哉に度々手紙を書いている。

1931年、直哉は多喜二の著書、「オルグ」、「蟹工船」、「3.15」に対する意見を述べ、トルストイに言及しながら、運動意識が前面にでる「主人待ちの芸術」は文学的価値が希薄になると助言した。

その後多喜二が、特別高等警察により投獄されたとき、直哉が差し入れしようとしたことを多喜二は知り、「わざわざ差し入れまでして下さろうとしたご好意を知り、非常に嬉しく思いました。」と感謝している。

そして多喜二が保釈中には、変装して奈良市の志賀邸を訪れ、一泊している。なかなかできることではない。

1933年、直哉の誕生日、2.20に多喜二は殺された。

直哉は自身の日記のメモに「小林多喜二・・・捕らえられて死す。警官に殺されたらしい。実に不愉快。一度きりしか会わぬが、自分は小林から印象を受け、好きになり、暗澹たる気持ちになる。」と書いた。そしてすぐに多喜二の母親にお悔やみと香料を送った。その後「多喜二全集」が出版されたときは自薦文を書いている。

もし多喜二が戦後まで生きていたら「清兵衛と瓢箪」の尾道に来て、この風土の中で小説を書いたに違いない。

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